2016年09月26日

アユタヤの日本人村―山田長政、マリー・ギオマール・デ・ピーニャ、そしてペトロ・カスイ・岐部― 徒然にD

 タイ・バンコクのセント・ルイス・カレッジ訪問の際、同大学及び病院の前理事長であった神父様を訪ねて、アユタヤ(バンコック東方80`)の聖ヨゼフ教会(タイで一番古いカテドラル<司教座教会>として建てられた)を訪れ、日曜のミサに参列した。神父様は、我々日本からの来客を歓迎し、タイと日本との間の古くからの交流や、ローマまで歩いて神父になり帰路アユタヤに立ち寄り2年間滞在した、ペトロ・カスイ・岐部神父のことを、英語とタイ語で参列者に説明された。
 アユタヤは1350〜1767年」までの417年間、タイ王国(当時はシャム)の都であった。海から離れた内陸部のチャオプラヤー川に囲まれた要塞都市で、河川海運が発達し、16世紀末以降多くの外国人が渡来し、交易を営み栄えた(当時のバンコクはその名前の由来の通り、果物豊かな寒村であった)。チャオプラヤー川を下るとすぐに、ポルトガル人村と日本人村が対岸に位置し、日本人村には1600年代には1000〜1500人の日本人が居住していた。その内、大多数の600人を超える者がカトリック教徒であり、それは遠く日本から離れたキリシタン村であった。禁教下の日本を離れ、キリシタンとして信仰を守った人々であった。
 アユタヤの歴史に残る著名な日本人がいる。その筆頭格の山田長政は、キリシタンではないが、アユタヤの日本人町の頭領となり、日本人義勇軍の長としても内戦・外征に功があった。国王ソンタムの信任を得、最高の官位オーヤ・セーナピモクを授けられた。今回、20数年振りにアユタヤを訪れると、日本人村跡地に立派な記念館が建てられていた。そこで初めて知ったのが、もう一人の日本人、マリー・ギオマール・デ・ピーニャ(ターオ・トーンキープマー)という、日本とポルトガルの血が混じる女性である。カトリック教徒であり、ポルトガル村で育った。マリーはアユタヤ王朝の高官と結婚し、王宮の菓子部長として活躍。ポルトガルの菓子をタイに伝えたとのことである。
ここで、私は日本人村記念館の資料には記載が無いもう一人の日本人について述べたい。アユタヤを訪れた福者(カトリックで聖人の前段階の人)、ペトロ・カスイ・岐部神父である。鎖国・禁教下の日本への渡航の機会を待って、アユタヤに2年間滞在したといわれる。遠藤周作のキリシタン時代の歴史小説には「沈黙」他数々の秀作がありますが、同様な歴史物の随筆でその中に「銃と十字架」(現在絶版中?)という実在の人物であるペトロ岐部カスイのダイナミズムを題材としたものがあります。また、中公新書からも松永伍一氏による「ペトロ岐部」と題した史実を集約した書籍が出版されており、ご存知の方もあるかも知れません。
ペトロ岐部カスイは、キリシタン大名でもあった大友宗麟の統治する大分県に天正15年(1587)に生まれ(同年、宗麟死去。嫡男・義統は豊臣秀吉の命により棄教。また同年秀吉はバテレン追放令を発令する。)、キリシタン弾圧下に信仰を守り司祭への道を希望致しました。長崎でのセミナリオでの教育を終え、危険を冒して日本を脱出しマカオ更にはインドのゴアに渡航するも、当地のセミナリオでは司祭への道は叶えられませんでした。ここで普通でしたら萎えてしまいそうですが、ラクダの隊商の情報があったのか砂漠の踏破を決意し中近東を経由し、エルサレムへそして目的地ローマへと約5年の歳月を経て辿り着きました。叙階までの修練を経て1620年に司祭に叙階されました。豊臣秀吉や徳川家康が活躍するあの頃に、財力も無い平凡な一青年を、独力でここまで行動させるものは一体何であったのだろうか、このダイナミックスさは一体何処から来るのであろうかと。現代の日本人よ、どうしてそんなに小振りになってしまったのだい? と自問したい心境です。
この後がまた凄かったのです。1630年、喜望峰経由でキリシタンへの迫害が厳しい日本へ潜伏を図り、各地で布教を行いましたが、最後に仙台領で捕縛されて江戸に送られて、拷問に耐えた後、寛永16年(1639)殉教されております。正にダイナミックスの中の厳しい愛の達成でした。カトリックの愛は、(使命に従った)厳しい愛なのです。
 今回、タイのアユタヤを訪れ、遠い昔に、禁教下の日本を離れ、キリシタンとして信仰を守った多くの日本人がいたことに思いを馳せ、また、苦難の道を超えローマで神父になり、死を賭して禁教下の日本への渡航をアユタヤで2年間待っていた、ペトロ・カスイ・岐部神父の想いを回想することが出来ました。
いと小さき弱き者が自分の第一義的なものとなる・・・医療・福祉・教育に携わる私共にとっては、患者様、利用者様、学生の皆さんでしょうか。これ等の方々の為に全力を尽くすというのが、私共の使命でありそれが聖マリア学院大学の設立理念だと思います。
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アユタヤの聖ヨゼフ教会(タイで一番古いカテドラル〈司教座教会として建てられた〉

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「アユタヤの日本人町の跡」記念碑の前で、セント・ルイス・カレッジの学長と共に

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ペトロ・カスイ・岐部神父の像(大分県国東市国見町岐部)船越保武・作)





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2016年02月08日

もうひとりの高山右近 −マニラまで同行した内藤如安− 徒然にC

教皇フランシスコは、キリシタン大名ユスト高山右近を福者(聖人として認定される前の段階で教会から与えられる敬称)として承認されました。高山右近は高槻城主で、織田信長の死後、豊臣秀吉に仕え、千利休の高弟でもあった。1587年秀吉の伴天連追放令の際に、城主の地位を捨て信仰を守り通した。1614年の徳川家康の禁教令によりマニラに追放され、到着40日後に同地にて病没した。高名なキリシタン武将であったので皆様もご存知の事でしょう。本年1月末にフィリピンのカノッサ大学と姉妹大学提携を行う際に、マニラにて高山右近や内藤如安の史跡を訪れる機会があった。内藤如安はマニラまで高山右近に同行したキリシタン武将で、もうひとりの高山右近とも言えるのではなかろうか。内藤如安こと、丹波八木城主・ジョアン内藤飛騨守忠俊について述べたい。
 内藤如安はルイス・フロイスにより受洗し、盲目の日本人最初のイエズス会修道士・ロレンソ良斎(ザビエルにより受洗)を招いて領内布教に努めていた。織田信長の覇権拡大に伴い、室町幕府より授かった丹波守護代としての義の下に、最後の将軍・足利義明を守り信長軍と孤軍対峙した。信長軍の明智光秀による八木城落城後、内藤如安は足利義明を追って備後の鞆の浦へ下る。よくよく義に生きる武将であったのであろう。その後、キリシタン武将・小西行長の重臣となった。文禄の役では不利な戦況下、明への和平使節という難しい任務につく。今から400年以上も前の事であるが、加藤清正と先陣を競わされながら面従腹背し李王朝や明と和平交渉を求めた小西行長の命を受け、釜山・漢(ソウ)城(ル)・平城(ピョンヤン)を経て遠く明の首都・北京に赴いたのである。特派大使小西飛騨守の名で、途中一年余り朝鮮と明の国境を流れる鴨緑江付近の明領側の遼陽に留め置かれるが、終に皇帝に和平交渉を求め任務を完遂した。文禄の役での、異国での殺戮や飢餓を眼にしていたからでもあろう、和平交渉を貫いた、その強靭な精神力には敬服する次第である。文禄・慶長の役は秀吉の死により終了した。
<マニラのSan Vicente De Paul 教会の外(左側)にある内藤如安の終焉の地と標された記念碑(写真1、2)横の説明文には、その特派大使としての記述がHideyoshi’s ambassador to China と英文標記にはあるが、日本語標記には無い(写真3)。>
その後、内藤如安はまた数奇な運命を辿ることになる。
 キリシタン大名・高山右近は秀吉伴天連追放令に対し、信仰を守り大名を捨て世間を驚かせたことは前述の通りである。高山右近は小西行長に匿われた後、加賀前田利家の客将となる。一方、関が原で西軍の小西行長は破れ斬首(キリシタン故、切腹を拒否)された。内藤如安は九州の地で、西軍として行長の弟・小西行景と共に、家臣として宇土城を守備していたが東軍の加藤清正に降伏・開城した。内藤如安は、西軍から東軍の下に寄ったキリシタン大名の肥前の有馬晴信の下に逃れた。その後、高山右近の招きを受け、同じく前田利長の客将となり加賀に移った。歴史の波は再び彼を襲う。大坂の陣を前にキリシタン武将の大坂方への結集を恐れた徳川家康・秀忠は、キリシタン禁教令の下、高山右近や内藤如安を加賀の地から雪中徒歩にて近江坂本を経由、大坂より海路長崎、そしてマニラへ追放した。当時、京に日本初の女子修道会ベアタス会を設立した内藤如安の妹・ジュリアがおり一行に合流した。マニラに到着した高山右近や内藤如安一行百数十名はスペイン総督から国賓級の待遇で大歓迎を受けた。熱病に冒され到着後僅か40日後に亡くなった右近に代わり内藤如安はマニラの日本人町を統括したが、鎖国下の日本には終に戻ることが出来ずマニラで没した(1626年、享年76歳)。
400年以上前のキリシタンの時代に、全身全霊で北京まで和平交渉に赴き、棄教を拒絶し国外追放されマニラに没した内藤如安。本学の設立理念と同じカトリックの愛の精神という強靭な生き様を現代の我々に教えてくれる。

内藤.jpg内藤如安終焉の地の碑(写真@)

内藤A.jpg内藤飛騨守忠俊終焉の地(写真A)

内藤B.jpg内藤如安終焉の碑(説明文)(写真B)





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2015年09月09日

ルイス・アルメイダと聖マリア学院大学の校章 徒然にB

 本学の創設者・井手一郎先生は先に母体となる聖マリア病院を開設されましたが、よくカトリック病院について話されるとき、アルメイダについて触れられています。先にも述べましたが、アルメイダは当時の嬰児殺しの風習を防ぐ為私財を投じて乳児院を建て、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた日本最初の西洋式病院を開設しました。
アルメイダは病院運営の為のミゼリコルディア(慈悲の組)の組織化も行っています。ミゼリコルディアはポルトガル本国や進出先で通常設置されていたものです。故国を遠く離れ死亡したポルトガル人の故国に残された家族の為の互助組織の意味合いもあり、多くはポルトガル人により設立されたものでした。1559年府内(大分市)に造られたミゼルコルディアは、日本人による病院における病院運営組織であり、他の国々のミゼルコルディアとは異なっています。日本人による病院の医療活動と運営及び救貧を目的として、医療とスピリチュアルケアを実践するものでした。(戦国時代の末期に、食糧事情も乏しく十分な蓄えも無い時代の庶民に対し説き、よくぞ慈悲の実践を示したものだと驚嘆します。)
さて、本学の校章の由来は、天草四郎の「陣中旗」の聖体をモチーフに百合の花と葉で囲い、創設者・井手一郎先生により考案されたものです。その陣中旗こそ、「聖体の旗」であり、この「ミゼルコルディアの旗」なのです。つまり隣人愛が説かれた校章なのです。我々日本人誰もが古来より尊ぶものなのです。遠くアルメイダが活躍した時代の、医療とスピリチュアルケアを実践する尊い決意を、我々聖マリア学院大学の学生・教職員はその胸に抱いているのです。忘れてはならないシンボルです。天草士郎.jpg天草四郎の「陣中旗」smc.jpg本学校章



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