2016年02月08日

もうひとりの高山右近 −マニラまで同行した内藤如安− 徒然にC

教皇フランシスコは、キリシタン大名ユスト高山右近を福者(聖人として認定される前の段階で教会から与えられる敬称)として承認されました。高山右近は高槻城主で、織田信長の死後、豊臣秀吉に仕え、千利休の高弟でもあった。1587年秀吉の伴天連追放令の際に、城主の地位を捨て信仰を守り通した。1614年の徳川家康の禁教令によりマニラに追放され、到着40日後に同地にて病没した。高名なキリシタン武将であったので皆様もご存知の事でしょう。本年1月末にフィリピンのカノッサ大学と姉妹大学提携を行う際に、マニラにて高山右近や内藤如安の史跡を訪れる機会があった。内藤如安はマニラまで高山右近に同行したキリシタン武将で、もうひとりの高山右近とも言えるのではなかろうか。内藤如安こと、丹波八木城主・ジョアン内藤飛騨守忠俊について述べたい。
 内藤如安はルイス・フロイスにより受洗し、盲目の日本人最初のイエズス会修道士・ロレンソ良斎(ザビエルにより受洗)を招いて領内布教に努めていた。織田信長の覇権拡大に伴い、室町幕府より授かった丹波守護代としての義の下に、最後の将軍・足利義明を守り信長軍と孤軍対峙した。信長軍の明智光秀による八木城落城後、内藤如安は足利義明を追って備後の鞆の浦へ下る。よくよく義に生きる武将であったのであろう。その後、キリシタン武将・小西行長の重臣となった。文禄の役では不利な戦況下、明への和平使節という難しい任務につく。今から400年以上も前の事であるが、加藤清正と先陣を競わされながら面従腹背し李王朝や明と和平交渉を求めた小西行長の命を受け、釜山・漢(ソウ)城(ル)・平城(ピョンヤン)を経て遠く明の首都・北京に赴いたのである。特派大使小西飛騨守の名で、途中一年余り朝鮮と明の国境を流れる鴨緑江付近の明領側の遼陽に留め置かれるが、終に皇帝に和平交渉を求め任務を完遂した。文禄の役での、異国での殺戮や飢餓を眼にしていたからでもあろう、和平交渉を貫いた、その強靭な精神力には敬服する次第である。文禄・慶長の役は秀吉の死により終了した。
<マニラのSan Vicente De Paul 教会の外(左側)にある内藤如安の終焉の地と標された記念碑(写真1、2)横の説明文には、その特派大使としての記述がHideyoshi’s ambassador to China と英文標記にはあるが、日本語標記には無い(写真3)。>
その後、内藤如安はまた数奇な運命を辿ることになる。
 キリシタン大名・高山右近は秀吉伴天連追放令に対し、信仰を守り大名を捨て世間を驚かせたことは前述の通りである。高山右近は小西行長に匿われた後、加賀前田利家の客将となる。一方、関が原で西軍の小西行長は破れ斬首(キリシタン故、切腹を拒否)された。内藤如安は九州の地で、西軍として行長の弟・小西行景と共に、家臣として宇土城を守備していたが東軍の加藤清正に降伏・開城した。内藤如安は、西軍から東軍の下に寄ったキリシタン大名の肥前の有馬晴信の下に逃れた。その後、高山右近の招きを受け、同じく前田利長の客将となり加賀に移った。歴史の波は再び彼を襲う。大坂の陣を前にキリシタン武将の大坂方への結集を恐れた徳川家康・秀忠は、キリシタン禁教令の下、高山右近や内藤如安を加賀の地から雪中徒歩にて近江坂本を経由、大坂より海路長崎、そしてマニラへ追放した。当時、京に日本初の女子修道会ベアタス会を設立した内藤如安の妹・ジュリアがおり一行に合流した。マニラに到着した高山右近や内藤如安一行百数十名はスペイン総督から国賓級の待遇で大歓迎を受けた。熱病に冒され到着後僅か40日後に亡くなった右近に代わり内藤如安はマニラの日本人町を統括したが、鎖国下の日本には終に戻ることが出来ずマニラで没した(1626年、享年76歳)。
400年以上前のキリシタンの時代に、全身全霊で北京まで和平交渉に赴き、棄教を拒絶し国外追放されマニラに没した内藤如安。本学の設立理念と同じカトリックの愛の精神という強靭な生き様を現代の我々に教えてくれる。

内藤.jpg内藤如安終焉の地の碑(写真@)

内藤A.jpg内藤飛騨守忠俊終焉の地(写真A)

内藤B.jpg内藤如安終焉の碑(説明文)(写真B)





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2015年09月09日

ルイス・アルメイダと聖マリア学院大学の校章 徒然にB

 本学の創設者・井手一郎先生は先に母体となる聖マリア病院を開設されましたが、よくカトリック病院について話されるとき、アルメイダについて触れられています。先にも述べましたが、アルメイダは当時の嬰児殺しの風習を防ぐ為私財を投じて乳児院を建て、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた日本最初の西洋式病院を開設しました。
アルメイダは病院運営の為のミゼリコルディア(慈悲の組)の組織化も行っています。ミゼリコルディアはポルトガル本国や進出先で通常設置されていたものです。故国を遠く離れ死亡したポルトガル人の故国に残された家族の為の互助組織の意味合いもあり、多くはポルトガル人により設立されたものでした。1559年府内(大分市)に造られたミゼルコルディアは、日本人による病院における病院運営組織であり、他の国々のミゼルコルディアとは異なっています。日本人による病院の医療活動と運営及び救貧を目的として、医療とスピリチュアルケアを実践するものでした。(戦国時代の末期に、食糧事情も乏しく十分な蓄えも無い時代の庶民に対し説き、よくぞ慈悲の実践を示したものだと驚嘆します。)
さて、本学の校章の由来は、天草四郎の「陣中旗」の聖体をモチーフに百合の花と葉で囲い、創設者・井手一郎先生により考案されたものです。その陣中旗こそ、「聖体の旗」であり、この「ミゼルコルディアの旗」なのです。つまり隣人愛が説かれた校章なのです。我々日本人誰もが古来より尊ぶものなのです。遠くアルメイダが活躍した時代の、医療とスピリチュアルケアを実践する尊い決意を、我々聖マリア学院大学の学生・教職員はその胸に抱いているのです。忘れてはならないシンボルです。天草士郎.jpg天草四郎の「陣中旗」smc.jpg本学校章



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2015年07月01日

ルイス・デ・アルメイダ:医療とスピリチュアルケア 〜キリシタンと呼ばれた人々-徒然に その2〜

アルメイダ.jpg 聖マリア学院大学は聖マリア病院を設立母体としておりますが、その聖マリア病院の設立理念に大きな影響を与えた、450年程前のカトリックの医療・福祉分野における偉業があります。医療関係者の皆様は大分出身でなくともアルメイダという名前をご存じの方も多いのではないかと思います。大分市医師会立病院はアルメイダ病院といい、1557年に豊後国府内(大分市)に日本で最初の西洋式病院を開いた彼に因んで名付けられています。
 アルメイダは1525年ポルトガルに貿易商の子として生まれ、祖父の代までポルトガル国王の侍医を務めたこともあり、彼も医学を修め1546年外科医師と医学教授の免許を得ています。故あってインドのゴアの王立病院で勤務後、貿易商に転身しています(この頃日本に旅立つフランシスコ・ザビエルを見送っているようです)。ザビエル離日の頃に平戸に初入航(1552年)後、再度来日し府内に留まりました。心を痛めた当時の嬰児殺しの風習を防ぐ為、貿易商として成功して得た巨万の富を投じて乳児院を建てる為でした。齢30にしての大決心ですが、この頃イエズス会修道士(晩年神父に叙階)となっています。さらに大友義(よし)鎮(しげ)(宗麟)に願って土地をもらい受け、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた病院を建てています。これが日本初の西洋式病院であり、外科治療を主とする西洋医学が初めて導入された場所でもあります(勿論、日本古来からの漢方薬による治療も日本人医師により内科疾患患者に適用されていました)。同病院においては病を治し、心も癒す、死に怯える病人にはホスピスを行い、医療のあるべき理想を実践して示しました。医療とスピリチュアルケアを実践するものでした。また、育児院の他にもハンセン氏病者の施設運営も行われていました。これら孤児や身分の低い庶民が亡くなった時も手厚く葬る彼らに、戦乱の世を生きてきた人々は皆共感したとされています。道徳心に篤い日本人本来の心に響いたのだと思われます。
 保健医療を常々考える者として心の手本としたい史実です。聖マリア学院大学は、このようなカトリック精神を実践できる保健医療者を育成することを心がけています。

<独り言>
 今から450年ほど前に、アルメイダが日本の最初の医療福祉に身を投じるきっかけとなったのが、当時の嬰児殺しの風習だったのです。嬰児殺し、間引き、堕胎という悪習を嘆いています。大分川の河口に嬰児を砂浜に置き去りにし、潮の満ちる時に生命が失われる風景にショックを受けたのです。堕胎ということに関して、私がいつも気になっていることがあります。日本の出生数は2000年以降、120万から更に減少し100万を切るのは目前です。一方、人口妊娠中絶数は、1950年代に120万件もあり、少子化の現在でも20万件(対出生対比の約20%)です。1950年代には、現在の出生数とほぼ同数の人口妊娠中絶が行わられていたことになります。現在の日本の未来を背負う、貴重な出生のすべてと同数が闇から闇へと葬られていたことになります。驚くべき悲しい数字だと思います。マザーテレサが1981年に日本を訪問されたことがありますが、「日本は貧しいから」というのが理由であったということを聞いたことがあります。高度成長を達成し、豊かな富を得、ものが溢れていた当時にこのこと(=心の貧しい日本人)を指摘されたと思います。


【写真:外科手術を行うアルメイダ(大分市・遊歩公園】
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