2019年10月17日

長崎サンチャゴ病院の鐘  ―徒然に㉔―

HOSPITAL SANTIAGO 1612 と銘の入った長崎の「サンチャゴ病院の鐘」については、元・26聖人記念館長の故・ディエゴ・パチェコ(結城了吾)神父様が述した、「長崎サンチャゴ病院の鐘」(キリシタン研究第十四輯、P231-255、昭和47年、吉川弘文館)の項に詳細に述べられています。同書を中心にこの鐘に幾つか触れてみます。

1、何故、今その鐘は大分県竹田市に保管されている?
 現在、大分県竹田市の中川神社の所有になるこの鐘は、竹田市立歴史資料館で展示されています。長崎のサンチャゴ病院は、ローマへの天正少年使節に同行したディエゴ・メスキータ神父により1603年にミゼリコルディアの運営する病院として設立されました。同病院の増築の際に1612年に鋳造され、病院の教会に掲げられたのがこの銅鐘です。残念ながら、1614年に幕府により禁教令が発せられ教会は閉鎖されましたが、病院は長崎キリシタン市民により辛うじて運営が継続されます。しかしながら、1620年、長崎のすべてのキリシタン遺構・遺物が墓地に至るまで残らず破却されてしまいます。この時にサンチャゴ病院も取り毀されてしまいます。1629(寛永6)年、竹中采女(重義)が江戸幕府長崎奉行に着任します。竹永采女はキリシタンに対する最も残忍な迫害者の一人でしたが、府内藩主でもあり、この鐘が大分に移された様です。1634年、竹中奉行が密貿易の罪で長崎奉行を罷免され切腹した時、大分の城(府内城)の責任者は竹田の大名中川久盛であったので、この鐘を接収した様です。それ故、鐘は長崎から大分(府内)へ、大分から竹田へ移されたのであろうとされています。

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サンチャゴの鐘(中川神社に保管されていた頃の写真。「キリシタン研究」より転写。)

2、キリシタンの鐘は今何処に?
キリシタンの教会に由来し、その伝統的形を保っている鐘で、今日日本に現存しているものは3つのみとのことです。サンチャゴ病院の鐘、京都南蛮寺の鐘、細川家の鐘です。
1)京都南蛮寺の鐘
京都南蛮寺の鐘は、現在京都の妙心寺春光院の所蔵の重要文化財です。サンチャゴ病院の鐘より小さく鋳造年代は古く、ポルトガルで鋳造されたのではないかとされています。青銅製の高さ60p、口径45p、重さ67.5s。IHS(Iesus Hominum Salvator:人類の救世主イエス)のイエズス会の紋章と1577年の年号が付されています。京都におけるイエズス会の最初の教会である南蛮寺は1576年8月15日に献堂されています。

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京都南蛮寺の鐘
(以下の京都南蛮寺の鐘に関する写真は下記より転載させて頂きました。https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/5e43cbe74a90c3b934a59d2066ba2761 )

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1577年鋳造

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IHSイエズス会の紋章

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春光院の「南蛮寺の鐘」の説明文

2)細川家の鐘
細川家の鐘は細川忠興がガラシャ夫人を偲び、1603〜10年に小倉の教会に贈った鐘です。細川珠子ガラシャは明智光秀の三女で、熱烈な信仰を持つキリシタンであり、美貌と才気を有した細川忠興の正室。ガラシャGratiaはラテン語で恩寵の意。本能寺の変後に一時山里に幽閉。秀吉の許しを受け幽閉を解かれるも、関ケ原の戦の直前に石田三成による人質策に抵抗し壮烈な最後を遂げています。細川家の家紋の九曜の紋(8つの小円に囲まれた1つの大円)が入った鐘で、サンチャゴ病院の鐘と同じ位のサイズです。大阪中津の南蛮文化館ホール入り口に展示されており、自らの手でキリシタン時代の実物の鐘の音を聞くことが出来ますので驚きました。同館には重要文化財の南蛮屏風や高山右近の書状他多数が所蔵されており、機会あれば是非訪問されるとよいと思いますが、同館の開館は5月と11月のみで注意が必要です。

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細川家の九曜の紋が入る鐘(南蛮文化館蔵)

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切支丹時代の鐘の音をご自分の手で!

3)サンティアゴ病院の鐘
サンティアゴ病院の鐘は、国指定重要文化財の「銅(どう)鐘(しょう)(サンチャゴの鐘(かね))」。青銅製で、高さ:83cm、口径:66cm、重量:108s、慶長17年(1612)鋳造。九州国立博物館による同鐘の成分分析では、組成は銅87%、スズ8%、鉛3%、鉄2%であることが判明しています。この銅鐘は日本で鋳造された様ですが、当時は国内産の鉛が不足しており国内産の鉛をタイ産の鉛を混合して制作されたのではないかと推定されているそうです。竹田市歴史資料館(解体新築工事の為、2017年より長期休館中。2019年秋リニューアルオープン予定)は館内撮撮影禁止でした。同館の入り口には、同鐘のレプリカが設置され、鐘の舌も新たに造られ設置されていますので、古の鐘の音を楽しめます。

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サンチャゴ病院の鐘(竹田市より転載、改築前の展示)

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サンチャゴ病院の鐘(竹田市より転載)

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竹田市歴史資料館(改築前)入り口にあるレプリカ

3、サンチャゴ病院の鐘が鳴り響いていた頃の長崎は如何に?

 長崎の誕生は、1568年から1571年までの3年間とのことです。長崎を含む地方の領主はキリシタン大名・大村忠純ですが、長崎の港の選定を行ったのはコスメ・デ・トーレス神父であり、その先兵がルイス・デ・アルメイダ修道士でした。勿論、長崎のイエズス会への移譲・発展等に関しては、法学の専門家でもあり有能な才能の持ち主であった巡察師アレクサンドロ・バリニャーノも忘れる事は出来ません。遡ること1549年、トーレス神父はフランシスコ・ザビエルと共に来日し、我が国にキリスト教を伝えています。同神父はその数年前に、スペインよりメキシコ経由の西回りでアジアへ渡り、インドネシアのアンボイノという港町で、同じくスペインより東回りでアジア布教の為に赴いたザビエルと邂逅しています。航海日記によるキリスト教暦祭日の1日のズレから日付変更線の問題を把握したり、地球が丸い事の実証がようやくわかった頃です。一方、アルメイダは1548年、貿易商になるべくポルトガルのリスボンよりインドへ赴く際に、後の「日本史」を述したルイス・フロイスらとサン・ペドロ号又はガジェガ号に同船し、宣教師たちの船中での親切な病人の世話などの純粋な姿に深い感銘を受けています。そしてザビエルに遅れること数年の1552年に来日し、その後、山口にてこのトルレス神父との出会いが待ち受けていました。齢30にして、貿易商で得た巨万の財を投げ出してイエズス会に入会することとなります。トルレス神父の指導下、外科医として我が国初めての西洋式病院を1557年豊後に開設し、同時にミゼリコルディア(慈悲の組)を発足・組織し病院を運営させました。我が国で初めて組織的看護も行いました。その後、下の国・九州を中心に東へ西へと、時には日本人最初の修道士・半盲のロレンソ了斎と長崎の島々へも布教を共にしています。横瀬浦そして長崎へも布教と開港の地を求めました。

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横瀬浦の天主堂の鐘(大磯・澤田美喜記念館蔵)

このキリシタンの心を広めるトーレス神父とアルメイダ修道士により長崎が開かれたことは意義深いと思われます。長崎は一面葦原の寒村でありましたが、開港初めより南蛮船の来航により急速に発展しました。双人の想い通り、長崎はキリシタンの街となり、ミセリコルディアの活動の源がもたらされたのです。トーレス神父は1570年(長崎志岐にて)、アルメイダ神父は1583年(天草河内浦にて)亡くなりますが、ミゼリコルディアの活動は全国の中で最も長崎で華開き、上述した様にこのサンチャゴ病院も天正の少年使節に同行したディオゴ・メスキータ神父により1603年に開設され、ミゼリコルディアの組に運営を委ねました。
サンチャゴ病院の鐘は、同病院の増築の際の1612年に鋳造されています。長崎では、鐘の音が日常生活の習慣となっていたとのことです。1614年に迫害が始まった時、長崎に存在していた教会は11あったそうです。住民の地域は小さく、深く入り込んだ湾は静かな水面を湛て、鐘の音を反響させていたそうです。当時のキリシタンの街・長崎の街どの様であったのでしょうか。以下の地図が参考になるのではないでしょうか。地図上のIの海辺にサンチャゴ病院があったそうです。ミゼリコルディアの本部のすぐ近くの、長崎の中心部に位置しています。

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慶長年間(1596〜1615年)の長崎の地図と現在の長崎
(「カトリック長崎大司教区 100年のあゆみ」より転載)

@ 西坂(26聖人殉教の地) 
A サンパウロ教会:セミナリオ及びコレジオ(旧・県庁)
B ベアトス様(寛永年間の代表的キリシタン一家の火炙りされた場所)の墓
C ミゼリコルディア本部及び教会の跡(法務局)
D トードス・オス・サントス(諸聖人)教会跡(春徳寺)
E サンフランシスコ教会跡
F 三・ドミンゴ教会跡(勝山小学校)
G 山のサンタ・マリア教会跡
H サン・ジョアン・バプチスタ教会跡(本蓮寺)
I サンチャゴ教会跡(酒屋町)

しかしながら、これらの教会の鐘の音も迫害が始まると途絶えてしまいます。1614年、メスキータ神父は、宣教師追放取り下げを願って病身を押して駿府へ赴きますが叶えられませんでした。高山右近らも乗せた宣教師追放の船が長崎より出帆する四日前に、長崎・十善寺の、漁夫の海辺の小さな藁小屋で亡くなってしまいます。あれほど多くの病人にベッドと必要な看護を与えたサンチャゴ病院はその開設者の最後を看取ることが出来ませんでした。同年、教会や修道院は取り毀され、或いは他の用途に供するために改造されましたが、病院はその活動を持続していました。それまで病院を支えてきたミゼリコルディアの組の人々はその管理を続け、教会は閉鎖されましたけれども暫くの間社会事業は継続されたのです。
遡れば、アルメイダにより豊後で始められたミゼリコルディアの組は、堺に届き、そこでキリシタンの日比屋了珪が病院をつくり、そこでミゼリコルディアの精神に倣って鋳物屋のジュスティノ飾屋は長崎に移り、1583年長崎の地でミゼリコルディアの活動を開始しています。その妻はキリシタンの婦人達を組織し、女性による組織的看護を開始しています。長崎のミゼリコルディアの活動は我が国で最も隆盛しましたが、1614年の禁教令により大打撃を受けてしまいます。
1620年、多くのキリシタン施設が墓地を含めて毀され、その際にこのサンチャゴ病院も取り毀されてしまいます。400名ほどの弱者が家なしになってしまいました。そこでキリシタンの長崎市民のミゲル薬屋と仲間はさらに秘かに慈悲の活動を続けました。ミゲル薬屋は長崎の興善町に住んでいたそうで、1619年には既にミゼリコルディアの組の会員として、本部の薬部に協力し、会の慈悲の活動に参加していました。ミゲル薬屋は庶民で厳しい迫害の下に約20年間、ミゼリコルディアを実践して来ていました。1633年、最後のミゼリコルディアの組長として、このミゲル薬屋が殉教し、ミゼリコルディアの50年に亘る活動を閉じます。火炙りの処刑の罪状は、「施しを集め、そのお金で人々や潜伏宣教師を援助」していたとのことでした。当時、貧しい人と言えば、すべてを奪われた殉教者たちの未亡人や孤児たちであったのです。
長崎のキリシタンの教会や病院はこの様にして破壊され、そこに活躍した長崎のキリシタン達により組織されたミゼリコルディアの活動は終焉してしまうのでした。キリシタンの心も破却されてしまったのでしょうか。冒頭で紹介しました結城了吾神父様の「長崎サンチャゴ病院の鐘」の項の最後には、「キリスト教的慈愛や、使徒としての、及び文化的活動としての、あの美しい歴史の中から、思い出として、象徴としてただ一つの鐘だけが残った。それは深い意味をたたえているHospital Santiago 1612という文字が彫られたあの竹田の鐘である。」と述べられています。本学図書館の搭には、「長崎サンチャゴ病院の鐘」の精神を受け継いだ「ミゼリコルディアの鐘」があり、久留米の聖マリアの地に鐘の音を響かせています。キリシタン時代の長崎でミゼリコルディアの組により運営されていた、サンチャゴ病院の鐘に象徴されるキリシタンの心を、永久に受け継ぎたいものだと思っています。

参考文献

1、 ディエゴ・パチェコ、長崎サンチャゴ病院の鐘、キリシタン研究第十四輯、P231-255、吉川弘文館、昭和47年
2、 結城了吾、長崎を開いた人 コスメ・デ・トーレスの生涯、サンパウロ、2007
3、 海老澤有道、切支丹の社会活動及南蛮医学、富山房、昭和19年
4、 ディエゴ・パチェコ、光を燈す医師 ルイス・デ・アルメイダ、26聖人資料館、昭和39年
5、 JE Nieremberg SJ、佐久間正訳、ルイス・デ・アルメイダ伝、キリシタン研究第二十四輯、19-27、昭和59年
6、 キリスト信者発見100周年行事委員会、カトリック長崎大司教区100年のあゆみ1865-1965、カトリック長崎大司教区、昭和40年
7、 結城了悟、188名殉教者の一人・純粋な長崎市民 ミゲル薬屋、日本26聖人記念館、2008
8、 日本188殉教者列福調査歴史委員会編、溝部脩監修、キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔、ドンボスコ社、2006
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資料:悲劇「アゴスチーノ摂津守殿」の筋書き ―徒然に㉓―

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小西行長の悲劇を伝えた戯曲「アゴスチーノ摂津守の悲劇」1607年、については、本ブログの㉑の「禁教時代の最後の邦人司祭・小西マンショと信徒発見後の最初の神学生、そして我らのマリア像」の第4項「悲劇のキリシタン大名・小西行長とその一族」において触れました。イエズス会司祭作で、イタリー語で5幕構成。
 悲劇「アゴスチーノ摂津守殿」の筋書きについては、幸田成友著、「和蘭雑話」P.192-214、第一書房、昭和9年12月 に掲載されていますが、古書店でしか入手可能性がなく既に絶版です。ブログ掲載後、国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1224377/96 に収録されていることが判明しました。ここに資料として追加致します。
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2019年09月06日

ミゼリコルディアの組とサンチャゴ病院の鐘、そして我らのミゼリコルディアの鐘 ‐徒然に㉒- 

 大宰府の九州国立博物館に本学客員教授の米国CDCのDr. Uyeki先生をご案内したことがありました。その際、偶然に竹田市が誇る国指定重要文化財「サンチャゴの鐘」が公開展示されており、初めてこの鐘に出会いました。薄暗い照明の博物館の中、その鐘に呼び寄せられる様に前に立った覚えがあります。平成24(2012)年の早春のことでした。

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九州国立博物館に展示されていた「サンチャゴの鐘」
現在、竹田市立歴史資料館に所蔵される、国指定重要文化財の「銅(どう)鐘(しょう)(サンチャゴの鐘(かね))」。青銅製で、高さ:83cm、口径:66cm、重量:108s、慶長17年(1612)鋳造。中川神社所有

竹田市立歴史資料館の「銅(どう)鐘(しょう)(サンチャゴの鐘(かね))」に関する説明は以下の通りです。
 『この銅鐘は岡藩主中川家に伝来し、明治以降は中川神社の社宝として伝わりました。銅鐘の表面には、十字と『HOSPITAL△SANTIAGO 1612』の文字が浮彫りで刻まれています。
 サンチャゴ病院は慶長8年(1603)にコレジヨ(神学校)の院長 ディエゴ=メスキータ神父によって、現在の長崎市長崎酒屋町付近に開設された施療院です。教会や学校、印刷所なども併設されていました。この銅鐘は、その病院が所有していたものと考えられています。銅鐘を鋳造したとみられる1612年から2年後の慶長19年(1614)、キリシタン弾圧によって病院は閉鎖されました。
 その後、銅鐘は当時の長崎奉行竹(たけ)中(なか)重義(しげよし)(府内城主)が摂取した後、第2潔ェ藩主中川(なかがわ)久(ひさ)盛(もり)が府内城受取りの際に接収した可能性が高いですが、詳細は不明です。』

 本学の聖マリア学院大学図書館の搭には、『ミゼリコルディアの鐘』が設置されています。図書館棟の新築に際して、上述の『サンチャゴ病院の鐘』をモデルとして作製し、新たに『ミゼリコルディアの鐘』と命名したものです。本学の設立理念であるカトリックの愛の精神を、より具体的に表現したMisericordia et Caritus(慈しみと愛)の象徴でもあり、キリシタン時代に長崎のミゼリコルディアの組のキリシタン達が運営したサンチャゴ病院にあった鐘です。サンチャゴ病院の増築の際に1612年に鋳造され、その鐘の音を長崎のキリシタン達に響かせたという歴史を持っています。キリシタンの心の鐘であるMisericordia et Caritusの精神を受け継ぐ御大切な鐘と考えています。
 聖マリア学院図書館は平成29(2017)年の夏に竣工しましたが、設計段階の搭の部分には当初十字架の図案がありました。設計図を眺めている際に、突如、冒頭で述べました、九州国立博物館で見た『サンチャゴ病院の鐘』の像が浮かんで来ました。と言いますのは、学長に就任して以来、本学の設立理念や聖マリア病院発足以前からの、私共のカトリック信徒による聖マリアの設立に至る源について考えていたからです。私は、この分野に関しては学術的に専門領域ではなかったのですが、吸い込まれる様にミゼリコルディアの組や、このサンチャゴ病院の鐘の由来について知ることになりました。私共と同じカトリックの精神を持つ、400年前の長崎のキリシタン信徒が奉仕したサンチャゴ病院での活動や、その病院に鳴り響いていたこのサンチャゴ病院の鐘について資料に没頭することになりました。
 1549年に我が国にキリスト教を伝えたのは、スペイン・バスク出身のザビエルであることは周知のことと思います。イグナチオ・ロヨラと共にイエズス会の創設メンバーでもありました。そのザビエルに遅れること数年後に、この九州の地にやって来た青年がいます。豊後(大分)でイエズス会修道士として、また外科医師として、乳児院や我が国最初の西洋式病院を開設したポルトガル人ルイス・デ・アルメイダです。彼の活躍は、我が国ではカトリック信者のみならず、キリシタン時代の医療・福祉の歴史を辿る関係者も知るところでもあります。彼は齢30にして、既に貿易商として得ていた巨万の富、そのすべてを当時のキリシタン活動に差し出しています。この後、イエズス会の修道士となったアルメイダはザビエルと一緒に来日した、上司・トルレス神父の命に従い、上述の医療活動の他、布教活動に生ける車輪(ヴィヴァ・ローダ)と仇名される程に馬車馬の様に働き尽くしました。60歳を前に天草河内浦で亡くなった時は、消耗し尽くして80歳を超えるが如き風貌だったそうです。イエズス会士の皆が敬った、アッシジの聖フランシスコの言葉である、「清貧の中でこそ神とともにいられる」という言葉を在日28年間地で行ったMisericordia et Caritus(慈しみと愛)の実践者と言えます。
 この医師であり修道士でもあるアルメイダの医療・福祉の実践においては、肉体的・精神的・経済的な支援のみならず、スピリチュアルケアも行っています。現在のWHOの最新の健康の定義に基づく内容を、既にこの時代に実践していた訳で驚くばかりです。母国で教授資格も有する外科医であったので、科学的根拠に基づく医療を実践し、かつ修道士としてスピリチュアルなケアも実践出来た人物だったのです。この豊後のアルメイダの病院を共に運営したのが、当時のキリシタン信徒達でした。アルメイダはミゼリコルディアの組(慈悲の組)を組織し、病院の運営・実践を委ねたのです。男性12人を中心とした体制で、我が国で初めて組織的な看護が行なわれたと言われています。思えば、この時代は戦国時代でありますので、一般の庶民さえも十分な衣・食・住を確保出来ない時代でしたでしょう。キリシタン信徒等からのみならず多くの方々から寄付を集め、弱い立場にある、病人や貧しい方々のケアを行うとは日本人として誇りにすべき事柄です。ハンセン病の方々のケアも行っています。また、当時は所謂、口減らしという風習があり、幼子を野山や海岸に置き去りにして始末していました。この風習をアルメイダは悲しみ、まず乳児院からスタートし、この様な体制に至ったのでした。このミゼリコルディアの組は、既にポルトガルの進出先には至る所に組織されていました。しかしながら、それは国外で病に倒れたポルトガル人の故国の家族等を支援するものがほとんどであり、我が国のミゼリコルディアの組の様に、日本人により組織され、日本人の為に、日本人のキリシタン達自らがその実践を行うという形態は非常に稀なものだったそうです。このミゼリコルディアの組は、上方や各地にも広がりましたが、その中で長崎では最も華開いたそうです。堺出身の金細工商・ジェスチノなるキリシタンにより組織され、その妻・ジェスタが率いた12人の婦人による組織的な看護が展開されました。ほとんどの住人がキリシタンだった長崎においては多くの寄附を集め、このミセリコルディアの組は幾つかの病院を運営したそうです。ポルトガル人等の外国人病人もケアした様です。司馬遼太郎は、その著作「街道をゆく11 肥前の諸街道」の「慈恵院」の項で、大変な驚きを持って、キリシタン信徒の運営による、このミゼリコルディアの組(慈恵院)の活動と、サンチャゴ病院の実践活動を述懐しています。「この長崎における慈恵院の存在とそこで働いていた一群の日本人たちは、社会奉仕という精神や習慣のほとんどなかった日本の伝統のなかにあって、破天荒なことをしていたということが言える。カトリックが入って一世代過ぎたかすぎないかという時期に、功利的な伝統から離れたあらたな日本人が出現していることにおどろかざるをえない」と。正にカトリックの愛の精神である、Misericordia et Caritus(慈しみと愛)の具現でした。
 さて、冒頭に記した「銅(どう)鐘(しょう)(サンチャゴの鐘(かね))」に付されたサンチャゴ病院という名前はどうして付けられたのだろうか。いつどの様に設立されたのでしょうか。あれこれ調べてみますと、その名前の由来について確たるものは見つかりませんでした。長崎大学医学部の先生の文章によれば、上司・トルレス神父と共に、長崎の開港・町の発展にも尽力したアルメイダの偉業を思い、彼の故国を懐かしみその病院名をサンチャゴ病院としたのではなかろうかという、長崎26聖人記念館長も務めた結城了吾神父様のご示唆を紹介した記述がありました。サンチャゴ、言わずと知れた、スペイン西北部のサンティアゴ・デ・コンデスポーラ。エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教の3大巡礼地の1つです。聖ヤコブは弟ヨハネト共にイエズス・キリストに従った使徒の1人ですが、同地にはこの聖ヤコブの遺骸が葬られています。スペイン・ポルトガル語のサンティアゴのラテン語読みがヤコブです。キリシタン達は、キリシタン自身の合言葉や掛け声として、「サンチャゴ!」と気勢を上げたそうです。キリシタン達にも名前が行き渡っていた、この「サンチャゴ」の名前をミゼリコルディアの組が活躍する病院名に冠したとすれば頷けます。聖ヤコブに捧げられた病院という意味になります。
 長崎でミゼリコルディアの組が活動を始める頃、長崎からローマへ4人の少年を伴う使節が出航します。天正の少年使節です。巡察師アレッサンドロ・バリニャーノの発案によるものでした。バリニャーノは途中、インド・ゴアの管区長の任を受け同行を中断しましたが、当初よりラテン語教師として同行しローマへ、そして日本への帰国までの引率の重任を果たしたのがディオゴ・メスキータ神父です。帰国後、長崎でコレジオの院長となり、併設した場所に教会と、このサンチャゴ病院を1603年に、ミゼリコルディアの運営する病院として設立します。同病院の増築の際に、1612年に鋳造され病院の教会に掲げられた銅鐘が、この「銅(どう)鐘(しょう)(サンチャゴの鐘(かね))」なのです。残念ながら、1614年に幕府により禁教令が発せられます。長崎より高山右近や内藤如庵他のキリシタン、及びジョアンの妹が組織した我が国初の修道女会・ベアティス会のメンバー等多くの者がマニラへ追放されます。別の船団では、パトロ・岐部・カスイ、ミゲル・ミノエス、小西マンショらのキリシタンを乗せ、時を同じくして長崎からマカオへ追放されます。この時、メスキータ神父は、幕府に追放の解除を掛け合いますが叶わず、皆が追放された後の長崎の浜辺の小屋で独り最後を迎えたそうです。そして、1620年、長崎のすべてのキリシタン遺構・遺物が墓地に至るまで残らず破却されてしまいます。この時にサンチャゴ病院も取り毀されてしまいます。この時、幕府直轄の役人は、この慈恵院(ミゼリコルディア)は余りにも善い事を行っているとのことで、直接その破壊には手を下さなかったそうです。1633年、長崎のミゼリコルディアの最後の組長、ミゲル・薬屋が西坂で殉教し、残念ながら長崎のミゼリコルディアは設立50年目にして途絶えてしまったのです。
 本学のミゼリコルディアの鐘は、朝9時、昼12時、夕6時の一日3回鐘の音を届けます。自動的に鐘を鳴らす装置を施し、上部を建物の搭の部分に固定しています。その為、鐘を吊り、鐘の舌部分にて鳴らす場合(竹田市立歴史資料館前のレプリカの鐘の場合)に比して、低めの音色の様に感じます。鐘の大きさや、鋳造に際しての成分は、九州国立博物館による分析結果を参考としています。ミゼリコルディアの鐘を図書館搭に設置する前に、福岡カトリック神学院の牧山強美神父様に祝別して頂きました。神父様は本学院の理事に就任頂いていますと共に、本学のキリスト教文化研究所の客員教授もお願い致しております。鐘の鋳造に際しては、鐘の色合いを400年経過した色合いにするか打診がりましたが、鋳造のままの色合いでお願いしました。今から400年間、この鐘の許にミゼリコルディアの精神を保持出来れば、その頃には現在の「銅(どう)鐘(しょう)(サンチャゴの鐘(かね))」と同じ色合いになることでしょう。そうなることが出来る様に信じて祈る次第です。

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ミゼリコルディアの鐘の祝別に際して

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本学のミゼリコルディアの鐘

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図書館の搭に設置されたミゼリコルディアの鐘
遠景は聖マリア病院タワー棟他
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