2021年02月04日

シメオン・黒田官兵衛 −徒然に㉙−

 黒田官兵衛をキリシタン武将として捉えた本がある。多少長くなるが、そのはしがきには、「官兵衛は、軍師官兵衛と言われる様に知略に富む武将であったが、知性の人でもあった。武人には珍しく芸術を理解し、歌人として歌を詠み、多くの詩人や芸術家と交流をもち、一方では限りない探求心から欧米の優れた文化文明やその考え方をどん欲に吸収した。その官兵衛のバックボーンにキリスト教の影響があったと考えられる。官兵衛は欧米の文化や文明の背景にキリスト教の影響がある事を知って、キリスト教を学び、敬虔なキリシタンとなった。」とある。
 秀吉の天下人の第一歩に繋がる、天正11(1583)年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いの前後に、官兵衛はキリシタン大名・小西行長の勧めによりキリスト教を知る。更に、高山右近や蒲生氏郷の熱心な勧誘もあり、天正13(1585)年に洗礼を受けた。隠居後は如水と号し、洗礼名シメオンの名前も刻んだ印章を使用している。イエズス会の年報には、Quambioye dono Simeao官兵衛殿シメオンと呼ばれていたとある。「片手に剣、片手に十字架」という官兵衛のスタイルがある。官兵衛は、武将として活躍している間も、活発な伝道を行っていた。天正15(1587)年の復活祭に、豊前中津で盛大な洗礼式が行われ、その際、大友義統、毛利秀包、熊谷元直らが受洗している。義統は大友宗麟の嫡男で豊後大友家の当主、秀包は毛利元就の九男で小早川隆景の養子ともなった、そして大友宗麟の娘である桂姫マセンシアを正室とした筑後国久留米の藩主であり、最後の元直は安芸熊谷家の当主である。

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黒田官兵衛(如水)の印章
「JOSUI SIMEON」と読める


 有岡城幽閉で、身体不自由な身になるという武将として大きなハンディを負いながらキリシタン武将として戦場に立った官兵衛は、何故にシメオンという洗礼名を望んだのであろうか。この有岡城幽閉の経験を、聖書の中の、柱の行者・聖シメオンの修行とダブらせて宣教師が選んだという推測を雑賀信行氏は述べられている。確かに、官兵衛の重大なエピソードであるが・・・。同氏が挙げられたもう一つの推測もある。昨年の最後の日曜日のミサ典礼は、聖家族の日の典礼のルカによる福音書2章22-40 節であった。その中で、官兵衛の洗礼名であるシメオンが登場する。シメオンは、幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言う。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせて下さいます。」福音では、シメオンについて「この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また精霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、精霊の示しを受けていた」と記されている。同章にて続くアンナと共に、このシメオンも高齢者として描かれているが、救い主を待ち続けた旧約の長い時代を感じさせ、その完成の時を印象付けているそうである。「主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはない」という、武将にとっては戦場においてこれ程潔い姿勢は他には無いのではなかろうか。そして、死を迎える時は、主に会う時なのだ。その瞬間まで、キリシタン武将として「正しい信仰深い人」を公言し、シメオンの印章を使い、片手に剣、片手に十字架で突き進むことが出来たのであろう。
 聖マリアの創設者・井手一郎先生を官兵衛と捉え、追悼文を寄せられた先生がいた。高度成長期の24時間365日の救急医療、それに続く先進医療の体制構築、そして臨床に根ざした教育の充実の結実である大学教育と、休みなく働き続け、民間主導による保健医療・教育の充実・推進という荒波の戦場において、全霊を尽くし戦死したのである。本稿冒頭に引用した文章の著者は、官兵衛の辞世の句を「ケ・セラ・セラ Que Sera, Sera」ではないか、「想い残すことなく、やりたいことはやった。わが人生に悔いはなし」と評している。その言葉は、井手一郎先生、そして続く井手道雄先生も、よく口ずさんでいたフレーズでした。でもそれは、最善を尽くし祈りを捧げた後の事でした。遠く、黒田藩の伏見屋敷で療養していた官兵衛は、死の床にあって宣教師を呼ぶよう頼みますが叶わず、独りロザリオを握り締め亡くなりました。慶長9(1604)年、享年59歳。(官兵衛の亡骸は、その後博多へ運ばれ、宣教師の祈りの下、盛大なミサが捧げられて葬られた。)創設者井手一郎先生は、移設保存された雪の聖母聖堂に棺は安置されました。聖堂入口上部の薔薇窓から射し込むステンドグラスの光が丁度胸元に光っていました。静かに天に向かい、主に会うことが出来たでしょう。官兵衛の死を追悼して嫡男・長政が建立した聖堂には、ローマのサンタ・マリア・マジョーレの聖母子画の写しが安置されたそうである。家康は如水(官兵衛)の死までキリスト教禁令を強行できなかったといわれている。井手一郎先生が安置された、雪の聖母聖堂の名前は、このサンタ・マリア・マジョーレの命名由来そのものである。ローマのテルミナ駅の近くに在る、この大聖堂を井手一郎先生は訪れたことがある。果たして、官兵衛との偶然の重なりに気付かれていたであろうか。近いうちに天国に行けたら尋ねてみたい。
(注:井手一郎先生の洗礼名は使徒ヨハネです。)

【参考文献】
林洋海、キリシタン武将黒田官兵衛、現代書館、2013
雑賀信行、キリシタン黒田官兵衛 上巻、雑賀編集工房、2013
雑賀信行、キリシタン黒田官兵衛 下巻、雑賀編集工房、2014


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2020年11月10日

聖マリアの宝 ダル・ドゥ・ヴェールの主題 『出会い』『受難』『復活』『希望』のステンドグラス ―徒然に㉘―

 聖マリアの宝と言えば、雪の聖母聖堂とルルドが挙げられるであろう。本学では、ミゼリコルディアの鐘であろうか。これ等の他に、数多くの聖母マリア像やレリーフが聖マリアキャンパスの各所にあり、その中の一つに外来棟ホールのステンドグラスがある。
 聖マリア病院の旧本館跡地に建てられた現・外来棟の竣工に際し、当時の病院理事長・病院長であった故・井手道雄先生(本学・前理事長)によって、日本へのキリスト教伝来の歴史を刻む、ステンドグラスが構想なされました。フランスのシャルトルに工房を構えるミロー氏の制作により、日本のカトリック教会の歴史をテーマにした、ダル・ドゥ・ヴェールの主題 『出会い』『受難』『復活』『希望』のステンドグラスが完成したのです。

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聖マリア病院・外来棟ホールのステンドグラス
ダル・ドゥ・ヴェールの主題 『出会い』『受難』『復活』『希望』

 随分昔の事になりますが、私もこのステンドグラスが制作されたフランスのシャルトルを訪れる機会がありました。パリより鉄道で1〜2時間の距離にあり、静かで、なだらかな丘陵の穀倉地帯にある、小じんまりとした落ち着いた街です。聞くところによれば、フランスの学生にとって、巡礼地として非常に人気のある街だそうです。そしてここには、有名なシャルトルの大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Chartresが在ります。フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつとされています。

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シャルトルの大聖堂(駅からの遠景)

 1145年にロマネスク様式を基礎とする大聖堂の建築が始まりました。大聖堂の二つの尖塔の一方(正面右)は、建築開始の頃の12世紀のロマネスク様式の搭であり、もう一方(正面左)は、大きく時代の異なる16世紀初頭のゴシック様式の搭だそうです。大聖堂のステンドグラスは緻密で、非常に素晴らしく、オペラグラスを持参して行かなかったことが悔やまれました。所謂、シャルトル・ブルーで知られるステンドグラスです。訪問したのが11月の下旬でしたので、非常に寒く、石造りの教会堂の中は冷え冷えとしていましたからか、余計にこのブルーが心に沁みました。

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シャルトル大聖堂内のステンドグラス

 最近買い求めた古本の水彩画集に、このシャルトルの大聖堂が描かれていました。網谷義郎という、京大法学部卒のカトリックの画家で、フランスに点在する幾つものロマネスクの聖堂を訪ね歩き、画集に纏められていました。

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シャルトル大聖堂の水彩画
網谷義郎(1923〜1982)「網谷義郎水彩画集 フランス ロマネスクの聖堂」より

 聖マリアにある宝物の、ダル・ドゥ・ヴェールの主題『出会い』『受難』『復活』『希望』のステンドグラスは、遠くフランスのシャルトルの大聖堂のステンドグラスの流れを受け継いでおり、また我が国へのキリスト教伝来の歴史を刻むものであります。
 このステンドグラスの設置を構想された井手道雄先生は、著書「西海の天主堂路」において、長崎や福岡の天主堂の歴史や、その背景について詳しく述べられています。そしてこの著書は同時に、己の心の探求でもあった様です。同書を執筆中の頃の、月刊「聖母の騎士」の作家・曽野綾子氏投稿と同号の投稿文が手許に残っています。
 「宣教師が心の支えにしていた聖母マリアのルルドのグロットで祈ると、静寂の中で幼児のような素直な自分に戻っているのに気づいた。真の祈りの意味を、癒しの意味を初めて知った。今は初めて天主堂を訪ねた時に心に染み入ったものが何かはっきりと分かる。西海の天主堂の旅路は、ルルドへの聖母マリアの誘いの旅路であった。(一部抜粋)」
 キリシタンと呼ばれた人々も、初めてキリスト教と出会った時に抱いた、幼児のような素直な心と祈り。この想いの内に、この聖マリアの宝であるステンドグラスは完成されたのではないでしょうか。

【参考文献】
網谷義郎『網谷義郎水彩画集 フランス ロマネスクの聖堂』大阪フォルム画廊、昭和54年
井手道雄『西海の天主堂路』智書房、2009



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2020年11月04日

アッシジの聖フランシスコ「清貧のなかでこそ神とともにいられる」―徒然に㉗―

 フランシスコという名前を聞くと多くの日本人は、それはザビエル、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを思い浮かべることでしょう。日本滞在は僅か2年余ですが、強烈なインパクトを当時も、そして今も与え続けている様です。滞在当時に直接教えを受けたキリシタン大名の大友宗麟は、後年洗礼を受け、彼にあやかりドン・フランシスコの洗礼名を授かっています。

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ザビエル城で入手したザビエルの絵
バスク地方の男性の風貌をモデルに描かれた

 フランシスコ・ザビエルは、1506年にスペイン北東部のバスク地方にあったナバラ王国のザビエル城主の子、5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子として生まれました。父はナバラ国王の信頼厚い家臣として宰相を務めた熱心なカトリック信者であり、13世紀の中世イタリアにおいて最も著名な聖人の一人であったアッシジの聖フランシスコに、多くのカトリック教徒と同様に心酔していました。この末っ子の誕生に際し、この聖人の名前からフランシスコと名付けたと言われています。清貧を旨とした聖人の名前を戴いて、この世に生まれ、イグナチオ・ロヨラと共に設立したイエズス会の神父として、清貧の中で、遠くアジアへ布教に向かい、遂に極東の我が国へのキリスト教布教という偉業を成し遂げたのです。

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ザビエル城

 さて、このフランシスコ・ザビエルについては何度か触れましたので、今回は彼の父親や、イエズス会の設立メンバーも敬った、アッシジの聖フランシスコについて述べたいと思います。私の洗礼名でもあり、私も6人兄弟の末っ子です。本学の設立母体となった聖マリア病院の外来棟の入り口には、聖フランシスコの「平和を求める祈り」のパネルが設置されており、また同病院中央棟のロビーには、聖クララと共に、アッシジの聖フランシスコのレリーフが聖マリアの設立者・井手一郎先生により設置されています。私共の聖マリアの基本姿勢となった、この聖人の生き方そして、幼い頃から私に問いかけて下さったこの聖人の姿を、私自身も御絵や写真、彫刻や絵画、数々の書籍、そして新旧の映画を通してその姿を追い求めました。

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聖マリア病院外来棟入口 「平和を求める祈り」のパネル

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聖マリア病院中央棟ロビー 
アッシジの聖フランシスコ(左)と聖クララ(右)のレリーフ

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アッシジの聖フランシスコのレリーフ

 数年前に、やっとこの聖人の地、イタリアのアッシジを初めて訪問することが出来ました。死後2年に満たない短い期間に聖人として列聖された聖フランシスコが地下に眠る聖フランシスコ大聖堂(Basilica di San Francesco di Assisi)は、彼を列聖した教皇の命により建築され、1253年に完成した古い聖堂です。アッシジの町の小高い丘の上にある聖フランシスコ大聖堂には、フランシスコ・ザビエルも訪れていますし、1585年6月7日には遠く我が国からの初の遣欧使節である天正の少年使節一行もローマ滞在後、このアッシジの聖フランシスコ大聖堂を訪れています。少年使節の伊東マンショ他は長崎のセミナリオにおいて、使節派遣の立案者であるイタリア人のイエズス会巡察師・アレキサンドロ・バリニャーノ神父から幾度も、この清貧を愛するアッシジの聖フランシスコの事、そしてこの大聖堂の事を聞かされていたことでしょう。

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アシジの町 小高い丘の上にある

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聖フランシスコ大聖堂
(Basilica di San Francesco di Assisi)

 Basilica di San Francesco di Assisi のHP(https://www.sanfrancescoassisi.org/html/ita/index.php)によれば、フランシスコは、1181-82にアッシジに生まれました。彼の父親は裕福な商人であり、彼の出生下時はフランスへ出張しており、旅から戻った父親は彼をフランシスと名付けたそうです。裕福な家庭に育ち、騎士としても働きますが、神の啓示を受けることになります。その後は多くの書籍に記される様に、自然や動物を愛し、清貧を旨とする修道会を立ち上げています。古い映画の中で、ラテラノ大聖堂にて直談判した姿の映像が思い出されます。1226年10月3日の夕方、44歳で帰天しました。
 一枚の祈りのカードが手許にあります。アッシジ訪問の際に、聖フランシスコ大聖堂の聖人が眠る地下聖堂で入手したものです。

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徒然に㉗ 聖フランシスコ-5-2.jpg (裏)

 その中の絵と同じ絵がもう一枚あります。神父様やシスター方、カトリック信徒の皆様からは、お叱りが飛んできそうですが、どうも私には、この聖人の絵は(ネットでアッシジの聖フランシスコと検索すると大きく出て来ますが)愛嬌ある子供の河童に見えて仕方がありません。でもこの絵は私のお気に入りで、私の手帳には、このアッシジの聖フランシスコの絵と、「清貧のなかでこそ神とともにいられる」との言葉を付しパウチした自作のお気に入りのカードの宝物があります。

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自作のお気に入りのカード

 聖フランシスコの像も色々探しました。今の一番のお気に入りは、アッシジの町で買い求めたオリーブの木で彫られた10p程の、フランシスコ修道会の装いで、聖書と小鳥を手にした聖フランシスコ像です。勿論その他に、τの十字架の付いた小さなロザリオは何時もポケットに入れています。このロザリオのお陰で、祈りの少なかった私でも、祈り続けることが出来る様になりました。でも、未だに「アヴェ・マリアの祈り」ではなく、古い祈りの「めでたし聖寵充ち満てるマリア、・・・」の「天使祝詞」の言葉が自然と口から出てきます。

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木彫りの聖フランシスコ像

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τのロザリオ 
綻びたので次回アッシジで新しいものを買おう!

 「清貧のなかでこそ神とともにいられる」・・・。そうありたい・・・。随分以前の事ですが、韓国の景勝地で仏教寺院を訪れた際に、数珠や仏典を並べた寺の販売所で、日本の托鉢僧も使う木製の器を見つけました。応量器とか持鉢と呼ばれるものです。購入の際に、私を眺めていた老齢の仏僧が、応量器など購入する珍しい日本人観光客の若者だと思ったのか、私に近づき、何に使うのか?と・・・。まさかフランシスコの清貧の生活に憧れて・・・とも言えず、何やかやと返答した覚えがあります。

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応量器 一番大きい器は托鉢にも使用
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応量器 沢山の器が収納されている
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応量器 一汁一菜の世界

 今思えば、若い頃から清貧の生活を想い描いていました。この言葉を唱える私に、今は亡き妻は、「清貧のなかで・・・?貴方は出来るのかしら?」と揶揄したものです。やはり、この言葉を実践するのは難しいのでしょうか?天国で、聖フランシスコに取り次ぎをしてもらう様に、祈りの中で妻にお願いしました。

フランシスコの平和の祈り

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。


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聖フランシスコ像

徒然に㉗ 聖フランシスコ-10.jpg 祈り




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2020年08月20日

博多のキリシタン豪商・コスメ末次興善 ―徒然に㉖―

 新型コロナウイルスの影響で、今年の大河ドラマは越年放送となるとか。明智光秀による本能寺の変のシーンも年越しとなるのか・・・。さて、その本能寺の変の前夜、博多の豪商・島井宗室と神屋宗湛は信長の茶会の為本能寺を訪れていた。宗室は既に信長が所有していた初花・新田肩衝と並んで天下三肩衝と呼ばれた茶器、「楢柴肩衝」の茶入れを信長に献上するために来訪を約束していた。信長は茶道具揃え披露の為、安土城より多くの秘蔵の名物を持参していた。来訪した二人は茶会で遅くなり本能寺に泊まった。翌日未明(1582年6月2日)、本能寺の変。宗室は博多から持参した「楢柴肩衝」を携え、更に茶室の床にあった「弘法大師真蹟千字文」を、宗湛は牧谿の「遠浦帰帆図」の名物を夫々持ち出したといわれている。下図はその様子を描いた挿絵である。僧服を着して僧侶の群れに投じ以て此危難を避けたとある。

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「商人亀鑑 博多三傑傳」より転載

 当時の豪商は既に経済のみならず、政治の分野にも大きな影響を及ぼし、政商としてこの二人の博多の豪商は、遠く京において信長の茶会に招かれていたのであった。博多は堺に並ぶ自治商業都市で、地理上、朝鮮や明国、東南アジアとの交易窓口だった。島井宗室は貿易で富を蓄え、博多も支配下に置く大友宗麟とも親しく、神屋宗湛は曾祖父の代から石見銀山を再開発した富裕な貿易商人で、後の博多代表町人の一人。この時代の堺の豪商・今井宗久や津田宗及、そして博多の宗室や宗湛はキリシタンではなかったが、堺にも博多にもキリシタン豪商がいた。堺では日比屋了珪や、小西行長の父・小西隆佐、そして博多ではコスメ末次興善がいた。
 コスメ末次興善は、1520年頃の生まれ、博多の宗室や宗湛よりも年配。堺の今井宗久や津田宗及とは同年輩。平戸(もしくは山口)生まれで、ザビエル来訪時(ザビエル一行の宿主ともなった家の出とか)に洗礼を受けた。極めて熱心なキリシタンで、洗礼名・コスメは、ザビエルと共に来日した、コスメ・デ・トレス神父から受洗の際に授けられたであろうとのことである。コスメ末次興善に関しての記録が残る。1565年1月に、都に布教に向かうフロイス神父は、アルメイダ修道士と一緒に堺に上陸した。アルメイダは健康を害していたのと、堺でなさねばならない用件があったので、更に目的地の都へ向かったフロイスと離れて、日比屋了珪宅で保養せざるを得なかった。了珪との別れの日にアルメイダは茶の湯に招待されたが、同席していたのが興善であった。アルメイダはフロイスと下の国(九州)から上方へ向かう際に興善を同行させていたのか、又は博多と繋がりの深い堺に居た(もしくは商いの店を構えていた)興善と茶の湯の席を同じくしたのであろう。アルメイダは書簡の中で、「日本において私たちの事務一切の世話をしている、はなはだ善良なキリシタン」と記し、フロイスは著書・日本史の中で「日本で何くれとなく我々の用事を世話してくれる男で、コスメ・コ―ゼンという、富裕で、たいそう善良なキリシタン」と記載している。
 博多や秋月に居を構え商いした興善は、豊後や秋月に布教したアルメイダを当然支援した。また早くから貿易の為明国と往来し、王直らとも交流があったと考えられ、ポルトガルとの交易の下地があり、元貿易商でもあったアルメイダと気脈が通じたのではなかろうか。また、博多の豪商として財務に明るく、イエズス会の財政管理も委ねられ、「イエズス会のすべての事を世話している」と言われる程信頼されたのであろう。長崎の開港の1571年以降、キリシタンである興善の事業は長崎にも進出する。豪胆な活動を展開する興善は博多の豪商として長崎にも基盤を基づいた。後の長崎の興善町の由来ともなる。興善は博多の豪商として、島井宗室と神屋宗湛らと同様に、その眼は国内のみならず、朝鮮や明、東南アジア、そしてヨーロッパへと向いていたのではなかろうか。この大航海時代に生きた、力強き、勇壮な日本人商人の魂を持っていた人々である。
 ところで、博多は度々戦乱により破壊されている。博多が1559年に破壊されたとき、教会も焼失し、カーゴ神父は豊後へ逃れた。教会は1561年に一人の信者の世話で再建されたとある。それがコスメ興善であり、彼は自分の費用で聖堂と司祭館を建てた。その後も、興善は博多でキリシタンを守った。1573年には布教長カブラル神父を博多に迎えている。博多の豪商としての活動の傍ら、戦乱の世において、大友と秋月(種実)や龍造寺との争いから神父や修道士のみならず、多くのキリシタンを戦乱から守っている。1580年に龍造寺が博多を破壊した際に、博多の多くのキリシタンは長崎へ移るが、興善一家は秋月に逃れた。準管区長コエリョ神父の書簡による依頼もあって、秋月種実の許可の下、秋月最初の聖堂が興善の尽力で建てられた。種実は、秋月のみならず九州屈指のキリシタン豪商・興善を尊敬していたのである。晩年、巡察師ヴァリリャーノが秀吉謁見の為、京へ上る途上秋月を通過した際は、伴天連追放令後の緊張した時期にも拘わらず、七十歳の高齢も構わず、秋月で迎える為、博多から秋月へ出向いている。それが興善を記す最後の記録となった。
 博多の豪商・島井宗室と神屋宗湛は信長の意向に沿ったが、博多のキリシタン豪商コスメ末次興善は、ザビエルやトルレス神父から直に受けた教えを守り、続くアルメイダ修道士他の多くのキリシタンに尽くしたのである。

参考文献
1) 江島茂逸他編、商人亀鑑 博多三傑傳、明治25年、博文館
2) フロイス著、松田毅一他訳、完訳フロイス日本史1、2000、中公文庫
3) H.チースリク著、高祖敏明監修、秋月のキリシタン、2000、教文館
4) 田代量美著、筑前城下町 秋月を往く、2001、西日本新聞社
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