2018年04月02日

補遺: 資料「久留米のキリシタンと毛利(小早川)秀包」 ―徒然にG

久留米のキリシタンと毛利秀包(ひでかね)について、パチェコ・ディエゴ(結城了吾)神父様の著書「九州の古城とキリシタン」の中から、「久留米・笹山城」項の以下内容を転写させて頂きましたことをお許し願いたい。当該書籍は絶版ですが、久留米のキリシタンについて詳しく平易に解説されていることが資料として転写に至った理由です。(一部修正・加筆しています)

 秀包は1568年毛利元就の九番目の子供として生まれ、13歳の時、兄小早川隆景の養子となり、16歳で大阪城に人質として送られた。その後、関白秀吉に仕え、小牧山、四国と九州の戦場に行った。1587年黒田孝高の勧めに応じて、中津城で二十歳の時洗礼を受けた。九州征伐が終わったときには久留米城に入り、七万石の地行を受け、同じ年に大友宗麟の娘(七女)マセンシアと結婚した。
 いつも兄隆景と豊臣秀吉の元に置かれていたこの立派な青年は自分の道を自由に決める事ができなかった。大名になっても小早川秀秋の厳しい監督によってさえぎられた。文禄の役の時隆景の下に朝鮮に行き活発に戦ったので報いられ、秀吉の死後久留米に戻ることができた時、十三万石の大名になっていた。自身をもってその領地を司り始めたが、関ケ原はその道を止めた。35歳で亡くなる時秀包は淋しく消える大きな希望のようであった。
 現在みられる久留米城の濠と石垣は1616年と1653年の間に有馬家の大名によって造られたものである。毛利秀包と田中吉政、忠正の城はもっと簡単なものであった。同じ笹山という岡にあって筑後川を外濠にして、美しい平地を治めるこの平山城はキリシタンの一つの家庭の幸福な生活の家でもあった。秀吉の禁教令の時、洗礼を受けたばかりの秀包の信仰が危うくなったが、同じ秀吉の紹介で彼の妻になったマセンシア大友はその信仰を救うために援けとなった。14年の結婚生活には男3名女4名の7人の子供が生まれた。皆洗礼を受け、信者として育てられた。1588年には厳しい弾圧の中でマセンシアから招かれたペドロ・ラモン神父は医者に変装して久留米城を訪れた。翌る年、長男元信が生まれた時、ほかの二人の宣教師フロイスとゴンサルべスは久留米城に行った。その時元信は洗礼を受け、父秀包は壮大な宴会を開いてその出来事を祝った。子供は祖父義鎮と同じようにフランシスコと呼ばれた。その時から秀包はキリシタンとしてふるまったが、彼の藩主でもあった小早川の怒りを静めるために教会はまだ建てられなかった。時々宣教師は久留米を訪れ、1590年には、ヴァリニャーノ神父も京都へ行く途中、久留米城で盛大に迎えられた。その頃城下町には300名位のキリシタンがいたがその数は次第に増え、次の10年間には7,500人になった。1599年にはついに教会が建てられ、1年経たないうちに、秀包の甥であった毛利輝元がキリシタンの信仰を止めるように強く勧めていたにも拘わらず、もう一つの教会が建てられた。久留米から追い出された時秀包はキリシタンの敵として知られていた輝元の領地に宿を求めに行ったけれども、最後まで信仰を守った。死ぬ前に宣教師に逢い秘跡を受けることができた。マセンシアも主人を喪ってから、信仰を守るために、英雄的に務めたので、輝元は諦めて、そのまま生きる事を許した。
 
付記:関ケ原に敗戦し領地を失った秀包は長門に渡り、赤間関で1610に死亡した。マセンシアも子供たちを連れて夫の後に従った。マセンシアは1648年世を去った。
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2018年03月07日

日本人最初の学士号取得者とその仲間たち―ミゲル・ミノエス、ペトロ・カスイ・岐部と小西・マンショ― 徒然にF

 本学の学位授与式において学長式辞を述べ、その際に、日本人最初の学士号取得者について卒業生に紹介しました。また、今年度からは学位授与式終了時に、竣工した図書館棟の「ミゼリコルディアの鐘」を鳴らし、卒業生の前途を祝福する様にしました。本学の「ミゼリコルディアの鐘」は、1612年に長崎のサンチャゴ病院に設置された鐘を模して制作しました。慈しみの心を実践した、当時の長崎のキリシタン市民により設立されたミゼリコルディアの組による、付属のボランティア組織の病院の鐘です。400年以上も前の鐘ですが、その400年以上も前に、長崎でこの鐘の音を聞きながら、故国日本を後にした青年がいました。サンチャゴ病院は、後の出島の近くにあったとされますので、長崎を出航する際には、鐘の音で見送られたと思います。
その青年の名前は、ミゲル・ミノエスといいます。洗礼名をミゲルといい、美濃(名古屋の北)出身の青年でした。高山右近が幕府の禁教令により長崎より追放された同じ頃です。関ケ原の戦いが終わり、大坂の陣が間もなく始まる1614年の事でした。ミゲル・ミノエスには同行者がいました。豊後(今の大分)の国東出身で、この筑後地方でも奉仕されましたペトロ・カスイ・岐部と、アウグスティヌス・小西行長の孫で、対馬・宗家の藩主・宗義智と行長の娘・小西マリアの第一子であった小西マンショです。彼らは、マカオやインドのゴアを経由して、最終的にはローマまで行き、神父になっています。ここでミゲル・ミノエスを卒業生に紹介しましたのは、彼が日本人で最初に学位を取得した人物だからです。今でこそ、学士の学位は世界標準ですが、実に400年以上も前に、このミゲル・ミノエスという人物が、ポルトガルのエボラ大学(リスボンの近くです)で四年間勉強し、哲学の学士号を取得しています。因みに日本人最初のヨーロッパ留学生は、ザビエルから鹿児島で洗礼を受け、ザビエルの京までの旅の往復に同行した鹿児島の若き下級武士ベルナルドです。ザビエルが離日する際に―ザビエルはその後中国布教に赴き、入国を窺っていた上川島で熱病の為亡くなります―同行しポルトガルのコインブラ大学で学び、ローマも訪問しローマ教皇やイグナチオ・ロヨラとも面会しました(天正の少年使節渡欧の30年以上も前の事です)。ローマを訪れた最初の日本人です。しかしながら、ヨーロッパまでの長い船旅での疲弊に加え、ローマへの旅での疲れから体調を崩します。高熱と肝臓管閉塞を発し、残念にもコインブラで亡くなっています。(本項@に詳説)
ペトロ・岐部も、以前この項で紹介いたしましたが(本項D)、徒歩でアラビア砂漠を横断し、日本人で初めてエルサレムを訪れ、世界を歩いたキリシタン時代の強靭な神父です。出国前には、有馬のセミナリオを終えて、秋月(現在の福岡県朝倉市内、甘木市の北)で同宿(神父や修道士を補佐する職務)となり、筑後一円のキリシタンにも奉仕しています。特に、秋月の指導的キリシタンであったマティアス七郎兵衛(自分の命と引き換えに秋月のキリシタン全員への処分を免れる様願い出た)の殉教時には、その遺骸を長崎のトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意味)教会(長崎甚左衛門がルイス・デ・アルメイダに与えた土地にビレラ神父が建立。セミナリオやコレジオも付設。高山右近が長崎より追放される折にも滞在しました。長崎中心部の小高い丘の様な渡度山にあり、現在その場所には春徳寺がある。)まで運びました。最終的にはマティアスの遺物を遠くローマまで殉教の証として届けています。
豊後出身のペトロ・岐部は、このミゲル・ミノエスとローマのアンドレア修錬院で再会します。共にローマのグレゴリアン大学にも通いました。今日ローマ・バチカンの聖ペトロ大聖堂にあるミケランジェロのピエタの像も、彼らは400年以上も前に、見ていることになり、さぞかし感動しただろうと思います。また双人は、聖ペテロ大聖堂で執り行われた、イグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式にも参列しています。そこでは改めて、二人は禁教下の日本に戻り、殉教する決意を固めたとも言われています。世界的視野を持ち、強靭な精神を持つ日本人であったと思います。
また、ペトロ・岐部は日本に戻る直前、ポルトガルのリスボンのサン・ロケ教会で小西行長の孫の小西マンショにも再会しています。小西マンショはポルトガルのコインブラ大学(パリのソルボンヌ大学やイタリアのボローニャ大学と同等の歴史を持つヨーロッパ最古の大学の一つです)で勉強した後でした。既にローマで神父に叙階され、小西より年配であった岐部神父は、「心的・物的にもくれぐれも小西を宜しく」とイエズス会の皆に頼んだそうです。この後、小西マンショはローマに向かいアンドレア修錬院に入ります。岐部神父は禁教下の日本へ向かい、ポルトガルを離れます。
岐部神父に続き、ローマで神父に叙階されたミゲル・ミノエスは、小西マンショと共に最初にヨーロッパに上陸したポルトガルに戻ってきました。リスボンからインド・ゴア(そののち日本)へ向かい乗船出来ましたが、出航後間もなく嵐に会い引き返します。その時の後遺症がもとで残念ながら、ポルトガル・リスボンで亡くなります。一方、ローマで神父に叙階された岐部神父や小西神父は、数年を要した後、禁教下の日本へ戻ることが出来ました。しかしながら困難な中、潜伏し布教するも、捕らえられて殉教されています。小西神父は、禁教下の最後の日本人神父で、以後明治まで250年間日本人神父の誕生はありませんでした。ミゼリコルディアの精神を持ってローマまで行き、神父になり日本に戻り、十字架上のキリストに倣い、身を捧げて殉教された方々です。
わたしども、カトリック大学である聖マリア学院大学におきましては、ミゼリコルディア400年の歴史を刻む本学の鐘の下、慈しみの心を持って、教育・研究を続けて行きます。本学に学ぶ者は、この慈しみの心である、ミゼリコルディアの精神を忘れることなく、精進できます様に、本項で述べた、ペテロ・カスイ・岐部神父、小西マンショ神父、そしてミゲル・ミノエス神父様方にお取り次ぎ頂ける様お祈り致したいと思います。

付記:昨年から二度渡欧し、上述した神父様方の足跡を辿る機会がありました。訪問先々の写真を添付しています。400年以上前に、遠くこれらの地を訪れた神父様方の決意を思い浮かべながら、ミゼリコルディアの精神に想いを馳せて頂ければ幸いです。

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本学図書館棟の「ミゼリコルディアの鐘」と聖マリア病院タワー棟を望む。

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聖アントニオ教会(ポルトガル・リスボン)
1553年9月 ヨーロッパへの最初の日本人留学生ベルナルドはここにあった聖アントニオ学院で生活を始めた。テージョ河に近く、ポルトガルに到着後、長い船旅による体調を崩したベルナルドはここで留学生生活を始めた。

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リスボンのカテドラル 聖アントニオ聖堂に隣接する。

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後に建立された聖アンドレア教会(左)と聖アンドレア修錬院と思われる建物(右)
イタリア大統領府のすぐ傍に位置する。

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グレゴリアン大学 ローマの中心部に位置するイエズス会の大学 トレビの泉から歩いてすぐの場所です。

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ローマ・バチカンの聖ペトロ大聖堂の全景

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聖ペテロ大聖堂内のピエタ像(ミケランジェロ作) 入口すぐ右側に在ります。

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サン・ロケ教会 ポルトガル・リスボンの街中の小高い丘の上にあります
天正の少年使節一行もポルトガル到着後滞在しました。

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ポルトガルのコインブラ大学の鉄の門 旧大学への入り口です。

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コインブラ大学のラテン語回廊 この廊下を歩く時は、ラテン語での会話を求められた。

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コインブラ大学・旧図書館内部 金泥装飾の世界遺産です 16世紀から19世紀にかけての書物が約三万冊保存されている。

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コインブラの新カテドラル コインブラの街中の丘の最上部に在ります 
同カテドラル内の正面主祭壇に向かい、入口より左側4番目の小祭壇が、イグナチオ・ロヨラに捧げられた祭壇で、その祭壇内に最初の留学生ベルナルドの墓が在ります。
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2017年04月04日

サンチャゴの鐘-本学図書館の鐘、長崎のミゼルコルディア附属のサンチャゴ病院の鐘- 徒然にE

 愈々、待望の図書館棟が今秋に竣工します。図書館正面の搭にはキリシタン時代に長崎にあったサンチャゴ病院の鐘(1612年)をモデルとした鐘を、「ミゼルコルディアの鐘」として作成し設置することにしました。
既に、ルイス・デ・アルメイダの項で述べたことではありますが、豊後(大分)に府内病院を開設(1557年)した際に、キリシタン信徒もミゼルコルディア(慈悲の組)という組織を立ち上げ、混乱して貧しい戦国の世の中にも拘わらず、慈しみの心をもって貧困の者や病者を収容し看護を行いました。我が国での最初の組織的な看護の実践であったとキリシタン研究家の片岡弥吉氏は述べられております。
このミゼルコルディアの組織は、キリシタンが居るところ各地に形成されましたが、ルイス・デ・アルメイダが布教に尽くし、葦の野原から急発展した長崎においても開設され(1583年、同年ルイス・デ・アルメイダ天草にて死去)、最も充実した活動として華開きました。「長崎においては、堺の金細工商人であったジェスチノが長崎に来てミゼルコルディアの組を作り、その夫人ジュスタが十二人の夫人を誘って隣人愛の仕事に奉仕した。男性の手の及ばない病人の介抱、身の回りの世話など組織的看護婦活動をしていたと思われる。アルメイダが大分で始めた組織的看護夫活動と共に、日本看護史に記録さるべきであろう」と片岡氏は再び述べられています。
 1603年この長崎のミゼルコルディア付属の病院としてサンチャゴ病院が設立された(天正の少年使節の訪欧に際して、ヴァリニャーノ巡察師に替わり訪欧を完遂したメスキータ神父により開設)。誰からも見捨てられたハンセン氏病の患者や普通の病人をも収容していた。市内の他の会や教会とは別に、沢山の浄財が絶えずこの二つの施設に集まって来たそうである。
 1612年、サンチャゴ病院増築の際に、San Tiago Hospital 1612と銘のあるベル状の銅鐘が作られた(大分県竹田市に現存。国指定重要文化財「銅鐘」(サンチャゴの鐘)として登録)。
しかしながら、1614年 江戸幕府による禁教令により長崎の教会群は破壊され(同年、高山右近他も長崎より国外追放される。大阪冬の陣の年である)、聖ヤコブ(サンチャゴのラテン語読み)教会も破壊された。更に1620年すべてのキリシタン遺構・遺物が墓地に至るまで残らず破却され、慈恵院(ミゼリコルディア)とその諸施設も毀された(サンチャゴ病院も取り毀された)。1633年には長崎のミゼルコルディアの最後の組長・ミゲル薬屋が西坂で殉教し、長崎のミゼルコルディアは設立50年目にして途絶えました。
 著名な小説家である司馬遼太郎が、紀行文「街道をゆく」の「肥前の諸街道」の項にて、「この長崎における慈恵院の存在とそこで働いていた一群の日本人たちは、社会奉仕という精神や習慣はほとんどなかった日本の伝統のなかにあって、破天荒なことをしていたということがいえる。カトリックが入って一世代過ぎたか過ぎないかという時期に、功利的な伝統から離れたあらたな日本人が出現していること驚かざるをえない。長崎には、慈恵院立の医療設備のほかに、教会立のサンチアゴ病院があった。これらのにぎわいは、この種の設備のまったくなかった当時の日本において、壮大な偉観であったにちがいない。」と述べています。
ルイス・アルメイダの豊後の病院で、キリシタンの日本人信徒により生まれ、長崎に華開いたミゼルコルディアの附属のサンチャゴ病院は、同じカトリック信徒による私共の聖マリア病院の設立理念や本学の教育理念と一致し、これを継承するに相応しい鐘がサンチャゴ病院の鐘だと思う次第です。
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国指定重要文化財「銅鐘」(サンチャゴの鐘) 竹田市より転載
「HOSPITAL SANTIAGO 1612」の陽刻銘文 十字章の陽刻文
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